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ちば環境情報センター > ニュースレター目次>ニュースレター第267号 

2019.10.6 発行  代表:小西 由希子

目   次

  1. 関さんの森・道路問題が解決しました
  2. 台風15号爪痕、世界が激変
  3. 福島フレンドシップキャンプへ報告
  4. 新浜の話21 ~卒論-新浜鴨場のサギ山~

関さんの森・道路問題が解決しました

関さんの森を育む会  山田 純稔

 関さんの森から、いいニュースです。道路問題が完全に解決しました。具体的には、関さんの森の核心部分を迂回する形で作られた暫定道路が都市計画道路に変更され、同時に樹林地の大部分が特別緑地保全地区に指定されました。自然保護を目的とした市民運動によって都市計画道路が変更するのは、極めて稀なことです。
 関さんの森(松戸市)は、都市に残る貴重な里山的空間。関さんの森をめぐる道路問題は、1964年の都市計画決定からはじまります。関家を中心とする地域住民は、自然保護のために道路を地下に通す運動を展開。松戸市議会への陳情では、全会一致で採択されたこともありましたが、道路は地上ルートでの工事が進められ、2006年には関家所有の193mを残すのみとなりました。松戸市と関家側は、互いに迂回する道路案を提案するなど協議を続けていましたが、調整はつきません。2008年に松戸市は協議を打ち切り、関さんの森を分断する本線ルートでの道路開通を目指して、強制収用の手続きをはじめました。

   

 関さんの森をできる限り大きな塊として未来のこどもたちに残したい。そのためにも、道路はできる限り迂回してほしい……。関家や私たちの訴えに、県内外の自然・環境・里山関係の皆さまには、力強いご支援をいただきました。集まった署名は32,037筆。多くの団体や個人の皆さまが松戸市に対して意見書や抗議文を送ってくださいました。その結果、松戸市との間で協議を再開することができ、2009年に迂回する暫定道路をつくることで松戸市と合意し、強制収用を回避することができました。
 道路の線形を決めるにあたっては、その線形はもとより道路用地の寄付など関家側は大幅な譲歩を余儀なくされました。しかし、2010年に松戸市との間で交わした「道路用地の引き渡し及び緑地保全に関する覚書」では、暫定道路供用開始後に道路の状況をみて都市計画の変更に向けて努力すること、関さんの森関係の樹林地を可能な限り特別緑地保全地区に指定すること、さらに道路建設について検討するために関家・育む会などの関係者・松戸市職員で構成する協議会を設置すること、などを盛り込んで調印することができました。

   

 2012年に暫定道路は開通しました。しかし、開通してもあくまで暫定道路です。都市計画道路の線形はそのまま消えずに残っています。
 残された課題は、覚書で松戸市との間で約束した、都市計画道路の変更と特別緑地保全地区の指定です。道路については、覚書の正式な文面では、「共用開始後、本件都市計画道路の担う“主要な幹線道路としての機能と生活道路としての機能”を将来にわたって果たせるかどうか実態を見極めながら、それが確認できた後、都市計画の変更に向けて努力する」となっています。また、目標は平成26年(2014年)末と明記されていますが、埋蔵文化財の調査により道路の開通が遅れたこともありますが、これがなかなか進みませんでした。この間、いろいろありましたが、最終的には歩道を拡幅することにより、都市計画審議会での承認が得られました。そして、歩道拡幅工事を終えた8月30日に、都市計画道路の線形の変更、同時に旧都市計画道路上の樹林地部分が特別緑地保全地区に追加指定されることにより、覚書の内容が履行され、道路問題が完全に解決したわけです。

 関家にとっては親子2代、55年にわたる長いたたかいで、これまでの労苦は経済的なものも含めて、とても想像できません。道路の線形も当初の目標であった地下ルートに比べると大幅な後退ですが、なんとか関さんの森の核心部分を開発から守ることができました。さらに、関さんの森の大部分が特別緑地保全地区等に指定され、未来のこどもたちのために残すことができたことは、関家や私たちの願いが実現したことになります。今後は、関さんの森の維持管理と活用に専念できるというのも大きな喜びです。ここに至るまでご支援くださいました皆さまに、あらためて御礼申し上げます。

台風15号爪痕、世界が激変

木更津市議会議員  田中 のりこ    

 9月9日未明、台風15号は木更津市で最大瞬間風速49mを観測。夜は眠れず、市議会から貸与された防災服に着替え、朝を待った。早朝6:30地域を巡回する。地域の消防団も巡回していた。私の住んでいる地域は、築35年以上の家が多く、高齢者も多い。道路のあちこちに、5cm以上の太いくぎがついたままの屋根瓦が散乱したり、物置が道路の真ん中にあった(写真1)。「台風がきたら、世界が激変します」と言った気象庁の注意喚起は、このことかと思い知らされた。

   

巨大化台風対策、森林の管理
 団地周辺のアクセス道路を視回る。木更津市霊園周囲の桜並木はなぎ倒され(写真2)、林道をふさいでいた。火葬場方面へ抜ける林道(写真3)も、イオンタウンへぬける林道(写真4)も容赦なくなぎ倒された。木更津市の停電の要因は、倒木によるものが多かった。9月議会最終日の緊急質問に対し、木更津市は「今年度から森林環境譲与税の市町村への譲与が始まり、森林整備計画の策定に着手しているが、間伐や枝打ちなどを計画的に実施し、森林の所有者とともに適切に森林を管理していく」と答弁した。

   

大規模停電時のアナログ活動
 木更津市では、断水地区は少なくほとんどが停電だった。家の電話は使えず、防災無線の非常用電源は3日間のみ。災害時、議員は地域で活動と決まっていた。私も、地域住民の懸命な活動を邪魔せず、一助となるよう努力した。事務所を10日からオープンし、事務所前の掲示板には、毎日最新情報をわかりやすく掲示(写真5)した。また、公民館へブルーシートとどのう袋を100セット運んだり、携帯の充電サービスをデイサービスと連携して行った。

 

ブルーシートの配布で混乱
 市では12日、ブルーシートと土のう袋を市民総合福祉会館1か所だけでおこなっていた。自治会加入者には、地区区長会会長経由で配布し、自治会未加入者だけが個人で福祉会館へ取りに来ればよいと考えたようだ。しかしこれは自治会未加入の高齢者を排除するようなしくみである。
 一方、福祉会館では夕方、ブルーシート一枚をもらいに駆け付けた市民が駐車場に入れず大渋滞。受付でも混雑。行政側も結局、公民館に直接届けたほうが住民の手に早く届くと判断し、翌日から全公民館での配布となった。

情報発信・集約は人より場所
 市の情報発信・集約は災害対策本部である。地域では、「人」ではなく、「場所(公民館など)」に情報が集約され発信するのがよい。公民館に日々変化する必要な情報を貼りだし、地域で活動する人の動きも公民館に行けばわかるようにすると、地域の被災状況や困りごとが集約できる。その結果、公民館や地域住民の力で被災状況のマップも作ることができた。
 しかし、こうした動きはどの公民館でもできたわけではない。地域防災力は地域で育むものだ。11月には、新消防庁舎で、職員による出前講座(テーマ「知りたいです!大規模災害時の消防活動」)を予定している。

福島フレンドシップキャンプへ報告

 

 今年も福島フレンドシップキャンプへのご寄付にご賛同いただき誠にありがとうございました。おかげさまで6万円(ちば市民放射能測定室と合わせて9万円)をご寄付することができました。以下、千葉市少年自然の家の鶴岡義久さんより、ご寄付へのお礼とともに昨年度の会計報告が届きましたので、ご紹介させていただきます。

千葉市少年自然の家 鶴岡 義久  

 いつもお世話になっております。今年度も無事にキャンプが終了いたしました。
経費について、平成30年度分(3泊4日)をお知らせいたします。
今年度は集計中ですが、日程が3泊から2泊に変更になった関係で全体の経費としては、下がっております。

<収入>
  ・寄付(ちば環境情報センター及び市民放射能測定室)130千円
  ・寄付(自然の家呼びかけ・フリマ等)50千円
  ・ジェフ(共催/バス代)500千円
  ・千葉YMCA 515千円
<支出>
  ・福島児童(食事・リネン・プログラム・バス代・保険等) 969千円・ボランティア(食事・リネン・保険等) 102千円
  ・その他経費(送迎旅費・広報等) 124千円
  【支出合計  1195千円】

新浜の話21 ~卒論-新浜鴨場のサギ山~

千葉県野鳥の会  市川市  蓮尾 純子 

 1968~1969年は70年安保闘争のまっただ中で、学園紛争が吹き荒れた時代です。当時、農工大の林学科では全国にさきがけて自然保護の研究室ができました。そこに所属して、丸山直樹先生に妙高山のイワヒバリの調査に連れて行っていただいたり、今は草木ダムとなった草木の演習林の実習に出たり。休日には東京湾カウントを続け、葛西の探鳥会担当もやっていました。夫嘉彪は日本野鳥の会の事務局に勤めるようになり、野鳥の会を挙げてのカスミ網猟の禁止運動が高まる中で、岐阜で孤軍奮闘を続けておられた丹羽宏さんのお手伝いに現場に出向き、私も連れて行ってもらったものです。晩秋の夜明け、凛と冷えた大気の中を渡ってきたツグミの群れを目にした感動、そしてカスミ網猟で捕殺されたツミなどを含む小鳥の死体がゴザの上にずらりと並べられた光景は忘れられません。
 翌1971年、担任の故中村克哉先生に無理をお願いして、卒論のテーマとして新浜鴨場のサギ山の調査をさせてもらうことになりました。
 新浜鴨場周辺の水田や蓮田は、当時は既に区画整理事業が進められ、大半が埋め立てられていました。埋め立てといっても、サンドパイプを用いて一挙に全体が泥の海になったというわけではなく、まず縦横に道路が作られました。道路の間には再び水がたまり、湿原になっているところが多かったです。既に耕作は放棄されていたので、生長の早いヒメガマ、次いでヨシなどが一面に茂っているところもありました。一面がぜんぶコナギの青い花でおおわれた、息をのむような美しい光景を見た記憶がありますが、これは1、2年前だったかもしれません。
 鴨場のコロニーでは、5種類(ダイサギ・チュウサギ・コサギ・アマサギ・ゴイサギ)、おそらく2000つがい以上のサギが巣をかけていました。標識調査の時と同じく、竹やぶに踏み込んで、巣に番号をつけ、卵やヒナの数、その変化の状況を毎週記録して行くものです。途中からは、新浜に通いはじめていた高校生の由井(現在は松田)蘭子・故山口洋子の二人が手伝ってくれました。サギの糞や吐出物で汚れるのは覚悟の上でしたが、タケノホソクロバのオレンジ色に黒点のある毒毛虫には泣きました。
 サギ類のふ化までの日数、それまで1シーズンに2回繁殖するものがあるとされていたが、実際には繁殖に失敗したものがやり直すのがほとんどで、私の調査時には1つの巣からヒナが2回巣立った例はなかった、等、それまでサギの繁殖について書かれていたこととは少し違う様子が見えてきました。もっとも、毎週のようにサギ山に踏み込む調査はコロニーを大きく攪乱し、そのせいで死亡率が上がった可能性は多々あります。その時の繁殖成功率は、コロニーが順調に継続するには低すぎて、他に理由がなくてもコロニーがいずれ消失するかもしれないというさみしい結論になりました。
 実は、この時の調査では、毎回のようにサギの死体を拾うことになりました。時には巣の上で親鳥が死亡し、その下でヒナも全滅しているというようなショッキングな場面も目にすることがありました。拾った死体は嘉彪が翌朝の航空便で愛媛大学の立川涼先生のところに送ってくれました。立川先生は重金属の蓄積を調べておられ、死体入手の要請があったためです。サギの死体から高濃度のPCBが検出されて、これが大きく報道され、社会問題となりました。後になって、市役所の同僚から「実家は魚屋で、PCB騒ぎの時は魚がぜんぜん売れなくて、廃業寸前だったんだよ」といわれたものです。


 事務所移転のお知らせ

 大家さんのご都合で移転することになりました。
 新事務所は以下の通りです。
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   Tel:090-7941-7655  Fax:043-483-0027

【発送お手伝いのお願い】

 ニュースレター2019年11月号(第268号)の発送を11月6日(水)10時から事務所にておこないます。 発送のお手伝いをしてくださる方を募集しています。よろしくお願い致します。

編 集 後 記

 台風15号の被害が深刻だ。災害の少ない千葉県でこんなことが起きるなんて多くの人が想像しなかった。想定外の災害はこれからも起きるだろう。私たちの暮らし、そしてそれにつながる社会の仕組み、地球温暖化につながるすべてのことを我がこととしてこれまで以上に真剣に考え、行動しなくては…。 mud-skipper♀