ちば環境情報センター ニュースレター 

ちば環境情報センター > ニュースレター目次>ニュースレター第264号 

2019.7.8 発行  代表:小西 由希子

目   次

  1. 常民と野生動物 4「野生のサルを描いた絵師」
  2. 「割り箸リサイクルプロジェクト」からのお便りです☆彡
  3. 東京湾のマイクロプラスチック3~ダイアグラムで見る20カ所の砂浜Ⅲ~
  4. 新浜の話18 「挫折から」

常民と野生動物 4「野生のサルを描いた絵師」

哺乳類研究者 香取市 濱中 修

絵師森狙仙の講談
 講談は、江戸の庶民が楽しんだ演芸の1つで、そのお話しの中に当時の都市住民の動物観、自然観などが映しだされています。「花吹雪野猿の図」という演目は、江戸時代後期に活躍した森狙仙という絵師の立志伝です。森狙仙は、円山応挙に叱られて、奥山に分け入り、野生のサル(ニホンザル)と苦楽をともにする 生活をした結果、サルを生き生きと描けるようになったというお話しです。実際、森狙仙はサルを描くのを得意としていました。
 昔の日本人は、自然を奥山、里山、人里というように3つに区分する見かたをしていました。
奥山は、険しい山岳地帯のことで、超能力をもった不老不死の仙人が住む深山幽谷の地を意味しました。江戸時代の都市住民にとって、野生のサルはそういう奥山に住む動物でした。森狙仙は、本物のサルを描くために奥山で生活したということが、江戸の都市生活者からもてはやされ、講談のネタになりました。
現在では、登山がスポーツとして普及していますから、山岳地帯を特別な場所と感じるひとはあまりいません。しかし、江戸時代までは、そうではありません。山伏が修行に入ることはあっても、一般の人々が立ち入ることなどなかったのです。


サルを描いた森狙仙の絵
 では、森狙仙が描いたサルの絵は、どういうものだったのでしょうか。
 日本モンキーセンターは、昭和31年(1956年)に霊長類の研究所として、愛知県犬山市栗栖に創設されました。その後、昭和37年(1962年)に、犬山市内の成田山名古屋別院の近くに世界のサル類を集めた動物園を開園させました。
 日本モンキーセンターは、昭和51年(1976年)に研究所を廃止して、動物園だけになりました。しかし、発足当初は、研究所と動物園をもつ霊長類の総合博物館をめざしていましたから、歴史民俗学的価値がある絵なども、収集しました。
 森狙仙が描いた絵も、日本モンキーセンターが収集した資料の中に含まれています。その絵は、ニホンザルの顔の表情やしぐさを描いています。絵の中のサルは、この絵師に対する警戒心を明らかに解いています。サルたちは、森狙仙を群れの一員として受け入れ、群れの中で絵を描くことを許していたからです(1)。
山中で野生のサルに出会うことがあります。サルは、少し離れたところに飛び移って、半身に構え、いつでも逃げることができる体勢で、顔をこちらに向けます。そして、私を観察します。見知らぬ人間に対して、気を許すことはありません。
 野生のサルについて、深く知るためには、サルの警戒心を解かなくてはいけません。そのために行われたのが、戦後始まった餌付けです。しかし、餌付けされたサルが、野生のサルの本当の姿を見せてくれたわけではありませんでした。日本の「サル学」は、餌付けしたサルの研究から始まりました。その研究は、私たち日本人に多くの間違った理解を広めてしまいました。ニホンザルの群れはボスザルが統率する階級社会という誤解は、その1つです。
野生のサルの本当の姿をとらえるために、次にとられた方法は、研究者がサルになることでした。ヒトである研究者が、野生のサルと心を通わせて、サルから群れの一員として受け入れてもらうやりかたです。この方法で、それまでの研究の間違いが正されていきました。
 野生のサルの群れは、なかまどうしの争いなどない平和な暮らしをしています。森狙仙は、「サル学」の研究者たちよりも百年以上前に、自分がサルになって、サルが豊かな表情をもつこと、群れのなかまに対して優しい心づかいをして、なかよく暮らしていることを理解していました。森狙仙が描いたサルの絵から、それを読みとることができます。
 (1)水戸幸久『サルとバナナ』東海大学出版会2004年
私の連載は、しばらくお休みします。長いこと読んでいただき、ありがとうございました。

「割り箸リサイクルプロジェクト」からのお便りです☆彡

草加市 伊原 香奈子   

 ちば環境情報センターの大きな活動の1つにもなっているはずの「割り箸リサイクルプロジェクト」ですが、最近ではめっきり身を潜め、ニュースレターなどで皆さんの目に留まることも、なくなってしまっていました。でも、定期的に回収してくださるボランティアの方や、工場まで運んでくれる「王子斎藤紙業千葉営業所」の皆様のおかげで、今なおしっかりと活動し続けることができています☆彡 千葉市内を中心にいくつもの回収拠点があり(遠方では富津市にも♪)、そこでは一般の方からも協力いただけるようになっており、去年度も500㎏を超えるたくさんの割り箸が集まりました!

 さて、ここでちょっと問題を出してみようと思います。
 最近、田んぼなどの繋がりで会員になってくださった方には「はてはて??」でしょうけど、もう何年も当団体の会員になってくださっている方には、きっと簡単な問題ですよ。
  ① 木から作られている割り箸は、何の原料としてリサイクルできるでしょう?
  ② 集めている割り箸は、新品?それとも使用済み?
  ③ 上質なハガキほどの紙量ができ上がるのに、何人分の割り箸が必要でしょう?
 答え①紙の原料 ②使用済み ③たったの3人分


 いかがでしたか?答えることができた方も、できなかった方も、今回のニュースレターに最新版のチラシが同封されていますので、ご覧くださいね。
 まだまだ身近には、ゴミになっている割り箸がとてもたくさんあります。木材質であれば、1膳からでもコツコツと集めていただき、資源として活かしていただけたらと思います。
 同封のチラシは、HPからもダウンロードしていただくことができますので、ご近所の飲食店や、お知り合いなどにもお声掛けいただけると嬉しいです。また、ホームページには、「割り箸リサイクルプロジェクト」のページもあり、こちらも内容盛りだくさんです。ぜひのぞいてみてくださいね。

   

 さて、話は変わりますが、今年6月に入り、いくつかの朗報が入ってきました。
 千葉県庁で、職員の方が使い終わった割り箸を入れる回収箱が、なんと、今回、新しく2か所も増設していただけることになったのです!以前から本庁舎3階と4階のリフレッシュコーナーの一角に回収箱が置かれていたのですが、新たに12階と中庁舎の6階にも置かせていただけることになりました。より多くの職員に、ごみ減量やリサイクルに協力いただけることを期待したいです。
 もう1つの朗報は、千葉市ボランティアセンターが発行している情報誌「ぼらとぴ」に、割り箸リサイクルのことを、掲載していただけたことです。ここ10年近くは広報紙などに取り上げていただけることはなかったので、まさにサプライズでした!もしお手に取る機会がありましたら、ご覧になってみてくださいね。
 気がつけばこのプロジェクトも、もう15年経ちました。活動初期の頃のような派手な活動はしていないけれど、「継続は力なり」を信じて、これからもこのプロジェクトを進めていきたいと思っています。引き続き皆様のご協力も、どうぞよろしくお願い致します♪

東京湾のマイクロプラスチック3
~ダイアグラムで見る20カ所の砂浜Ⅲ~

千葉市稲毛区 グラフィックデザイナー 森口 ゆかり 
 


各地で見られるプラスチックの種類
マイクロプラスチックは砂浜や少し内陸の川沿いでも見られ、各地の量や内容は、地域により特徴があるようです。これらの発生源を形状が分かものから見ると、

 種類は様々で、海外製品も混在しています。地元の方が「大きいプラスチックごみが海に流れ出て、再び戻ってきているようだ」と話される千葉県南部の砂浜もあり、地形や生活環境も含めて地域の特性に沿った幅広い対策が必要だと感じました。

     

東京湾岸20カ所の砂浜の様子
 昨年の夏から秋に、東京湾の海岸を10kmごとに一カ所ずつ訪れて集めた情報から作成したダイアグラムは、それぞれの砂浜の様子を伝える、海とゴミのない砂浜、マイクロプラスチック採取箇所の3枚の画像と、採取したマイクロプラスチックが見られます。
 海風で小さなゴミ粒は砂浜全体に点在し、撮影する40㎝×40㎝の広さを見つけるのが思いのほか困難で残念な気持ちになりました。採取箇所の上に設置したガラス板には、地名といなげの浜と八幡海岸で採取したレジンペレットの分析結果と採取物を設置し、千葉県北部は粒状樹脂、南部では漁具や発泡スチロールが多いなどの、地域による量と内容物の違いも観察できます。

新浜の話18 「挫折から」

千葉県野鳥の会   市川市 蓮尾 純子 

 もっとずっとずっと後になって、2002年だったか、2003年だったか、三番瀬の「円卓会議」に山階鳥類研究所の尾崎清明さんの後を継いで、鳥類の専門家ということで委員になって、初めて出席した会議での衝撃は忘れられません。
 三番瀬の円卓会議は、漁協の方をはじめ、利害関係を異にする様々な方々が一堂に会して話し合うというものでした。正直なところ、びくびくしながら出席したのです。それまで「蓮尾さんは鳥のことしかわからないのだから」「鳥のためと言っても人の社会では通用しないよ」等々、言われ続けているうちに、自分の考えは偏っていて、一般常識とずれていると信じるようになっていました。それが誤りと思ったわけではありませんが、間違いだと言われるのは当たり前と思っていたのです。
 円卓会議の場でも、多くの方々が、三番瀬の干潟を埋め立てて住宅や商工業用地を確保したほうがよいと主張されるものと思っていました。京葉線の市川塩浜駅前、いわば一等地にでんと構えた行徳近郊緑地特別保全地区(行徳保護区)。開発し、市街化すれば税収も上がります。そこまでは言われなくても、人が自由に利用できる公園にすべきだ、という声が主流をなすと思っていました。
 ところが、「行徳近郊緑地は残された貴重な空間。大切に守らなくては」「鳥や生きものがいてこそ人も生きられる」「地域の貴重な財産。後世に引き継がなくてはいけない」環境保護を訴えるグループや生物畑の方々からではなく、漁協、商工会、地元自治会等の方々からこうしたご意見が相次いで出されました。心底から驚きうれしい衝撃を受けました。円卓会議のことはまたいずれ。

 

 「免罪符」としての悪しき前例を残してしまった‥‥という痛恨の中で、「執行部」として無我夢中で動いてきた学生メンバーはそれぞれの道を進みました。70年安保を前に、各大学では否が応でも学生運動がさかんになっています。一方では、杉並で初の光化学スモッグによる被害で女子高生が倒れたという事件、そして、尾瀬の三平峠への道路開発に反対運動が起こり、中心のおひとり、尾瀬の長蔵小屋の平野長靖さんが雪の山道で遭難して亡くなられるという事件、「大阪南港の野鳥を守る会」の発足、宮城県の「蒲生を守る会」の発足と、各地で次々に「自然を守れ」という動きが活発になってきました。
 「新浜を守る会」で行なった参加者100名近くの大規模な探鳥会を受けて、日本野鳥の会東京支部では新浜に続いて軽井沢でも一般に向けた大探鳥会を実施しています。早い時期からの環境教育が大切と、その方面を中心に動いたメンバーもいます。
 私はと言えば、干潟や湿地を守りたいと言っても、干潟というものについて、ほとんど何もわかっていないということに気づいて、干潟の動物を調べたり(底生動物調査の真似ごと)、標識調査で捕えられたシギにペイントスプレーで着色して(今にして思えば、ひどいことをしたものです)移動情報を集めたりしていました。50cm四方の正方枠(割りばしとひもで作りました)を干潟において、20センチ深さの泥を掘り、ふるいでこして、どんな動物がどのくらい見られるか、ということをやったのです。体力勝負でひとりではとてもできず、東大生の安達裕之さんにいつも手伝っていただきました。江戸川放水路の干潟で50センチ四方の泥中に500グラム以上もの動物がいたことに(おもにオキシジミなどの二枚貝)感動し、その一方では浦安の堀江あたりの埋立地(シギがよく集まった)の泥中にいた生物は20グラムにも満たない(ほとんどがミギワバエ類の幼虫)ことに、ほんとうに驚きました。


【発送お手伝いのお願い】

 ニュースレター2019年8月号(第265号)の発送を8月7日(水)10時から事務所にておこないます。 発送のお手伝いをしてくださる方を募集しています。よろしくお願い致します。

編 集 後 記

 6月29日、下大和田谷津田で、第10回ヘイケボタル観察会を実施しました。ぐずついた天気で、出現個体数が少ないのではないかと心配されましたが、満足いく数のホタルが舞っていました。これも無農薬無化学肥料での米づくりの成果でしょう。これからも皆さんと共に、生物多様性保全のための米づくりを続けていきましょう。    mud-skipper